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坂泰斗さんのオタクをしています

日記

梅雨と夏の入口を満員電車で往復しながら6月をやりくりしている。

転職して、今月から新しい会社に入った。新しい職場では毎日常にTOKYO FMが流れており、坂道アイドルの誰かしらや、誰とも知らない人たちの朗らかな喋りがおおよそ8時間に渡り私の一部になる。

そんな中で衝撃だったのが、「声優意外とラジオ出る問題」だ。

 


数日前、佐藤拓也さんがハーゲンダッツのCMをしていた。
定時1時間前のデスクで伸びていたら、「こんにちは、佐藤拓也です。みなさん、今日も一日お疲れ様でした」と優しい挨拶が聞こえてひっくり返るかと思った。

こちらがそこそこかなり好感を抱いている声優さんに突然労われるのは、心臓には悪いが素直に嬉しい。それはそれとしてあまりに予想外の方向だったのもあり若干混乱した。
(後から調べたらちょいちょい出てるっぽかった。ハーゲンダッツって声優起用とかしてくれるんだ…)


そして木曜日には、坂道アイドルの子の番組にゲストでてらしーが出ていた。

数日前から予告で「声優の寺島拓篤さんをお迎えします」とたびたび聞かされてはいたけれど、いざ電波の向こうからリアルタイムのてらしーが喋っているのが聞こえると「おお…本当にいるんだ…」と不思議な感動が湧き起こる。

代表作の読み上げでアイドルの子の可愛い声が「アイドルマスター」と読み上げるのがなんだかくすぐったく、デスクでぱちぱちとイラレをいじりながら聞くともなしに聞いた。


アーティスト活動10周年という話を聞いて逆算したら、もうこの人のことを一方的に7年も認知しているようで、そりゃ社会人にもなるかと納得した。
BRAND NEW FIELDを爆音で流しながら山陽本線の線路沿いを通学していたことを、まだ私はギリギリ思い出せる。
制服で田舎道の朝夕を共に過ごした声が、今なお自身の昼間に生きているのは感慨深かった。

 


それでも、思い出に浸る傍らで、年々薄らぐアイドルと声優の境目を考えていた。


ソロの個人名義で音楽活動をして、ラジオにも出て、役とはいえアイドルの魂を背負って、そしてアイドルを信じて好きでいて、アイドルと仕事をしているてらしーのやっていることはその実アイドルとあまり遜色が無いように思える。

というかもっと言えば下手なアイドルよりも「アイドルが望む活動」をしている気がする。

アイドルを愛し、声優を応援している私にとって、そこの同一視は理念にも美学にも反する行為だけれど、耳から入る楽しそうな音声を飲み込みながら「アイドルみたいだ」と思った。

 

声優のオタクをしているとたびたび脳裏に浮かぶ「声優のアイドル化」という言葉が年々重い。

 

私は、声優がキャラクターを背負ってライブを行うコンテンツをいくつか長く好きでいたけれど、メディアでそれが紹介される時、彼らは「アイドル役の声優」ではなく「アイドル声優」と括られる。(これに関しては一度テレビ局にメールを出したことがあったけど焼け石に水だったと思う)

そうして一人一人がまるでタレントかのように扱われていく。

そのコンテンツで見かけていた声優さんが、そういった活動を好意的に捉えていないのも見た。当時はまだ自我がぱやぱやで何もかも額面通りに受け取る人間だったので、一緒に同じものを好きでいてくれて、楽しそうな前向きな言葉をくれていた相手がそうでないと知って衝撃だった。

何度も見ていたライブ中の顔と、その人の発言を照らし合わせては「私が楽しい時、この人はしんどかったのか」とぼんやり思った。

 

最近は、会員制のチャンネルだとかYouTubeニコニコ動画に多数の声優コンテンツが展開されている。それらは少し個人の選択の中にある、ほんのりクローズドな範囲の公共空間ではあるけれど、人によってはこうした不特定多数に向けた大々的な公共の電波にも乗るし、声優アイドルなんてのもいる。

役者という「本来の活動」だけを応援できる人でありたい、正しくありたいと願う自身を置き去りに、電波は声優その人そのものの日々を乗せてただ流れる。
流れるものを本質とは違うと知って受け取りながら、それでも嬉しく反応する心の処理がわからないことにずっと戸惑い続けている。

決して昨今の展開が楽しくないわけでも、疲れてるわけでもない。楽しくて、何かがあると嬉しいのにそれがきっと正しくないから虚しいだけだ。

 

もはや、歌ダンスビジュアルトークを磨き、一つの職業として、プロフェッショナルとして存在する「アイドル」と、別のエンターテイメントのいずれかを生業としながら、同時に個人としても人前に出るアピールをしている、そうした生身を伴って人の心へ残るやり方としての「アイドル」が、同音の別個の概念として存在するように私は思う。

今や声優という仕事は後者に属し、職業の枠の外で「アイドル」として存在しているんじゃないだろうか。


昔読んだ二次創作で、「ファンにとってアイドルは非日常だが、広告として街中に存在することで日常の一部になれる」という旨の台詞があり、それがずっと好きだった。

音楽を再生するようにこちらが自ら能動的に顕現させるのでなく、自然発生的に日常の中に現れること。それが紛れもなく彼ら彼女ら自身の成果であること。そういうことが確かに自身の生活をやわらかなものにするのだと、ここ数日で知ってしまった。

「アイドル」のいる日常は楽しい。悲しいことに。

 

これを書きながら「オタク」「アイドル」「推し」みたいなワードでnoteを読み漁っていたら、「アイドルって偶像って意味だけど、もうそんなこと無い何かがあるよねこの時代。」という一文があり、「そう〜〜〜〜〜!!!!!!そうなの……そうなんだよ……」と項垂れてしまった。

 

 

事務をする人と企画をする人と経営をする人がみんな同じく一日パソコン前にいるように、いつしかアイドル業の人間も声優業の人間も、姿形生身の一部が公共にオンエアされていくこと、そうして受け取った誰かの中で特別になっていくことそのものが、少しずつ共通になっていくのかもしれないと思った。

それらは良い風にも悪い風にも取られるだろうけど、そのことで少し心を浮かび上がらせて働ける人の気持ちが、もうわかってしまうなとしめやかに思いながら、今これを書いている。

どうしようもない。