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坂泰斗さんのオタクをしています

日記

梅雨と夏の入口を満員電車で往復しながら6月をやりくりしている。

転職して、今月から新しい会社に入った。新しい職場では毎日常にTOKYO FMが流れており、坂道アイドルの誰かしらや、誰とも知らない人たちの朗らかな喋りがおおよそ8時間に渡り私の一部になる。

そんな中で衝撃だったのが、「声優意外とラジオ出る問題」だ。

 


数日前、佐藤拓也さんがハーゲンダッツのCMをしていた。
定時1時間前のデスクで伸びていたら、「こんにちは、佐藤拓也です。みなさん、今日も一日お疲れ様でした」と優しい挨拶が聞こえてひっくり返るかと思った。

こちらがそこそこかなり好感を抱いている声優さんに突然労われるのは、心臓には悪いが素直に嬉しい。それはそれとしてあまりに予想外の方向だったのもあり若干混乱した。
(後から調べたらちょいちょい出てるっぽかった。ハーゲンダッツって声優起用とかしてくれるんだ…)


そして木曜日には、坂道アイドルの子の番組にゲストでてらしーが出ていた。

数日前から予告で「声優の寺島拓篤さんをお迎えします」とたびたび聞かされてはいたけれど、いざ電波の向こうからリアルタイムのてらしーが喋っているのが聞こえると「おお…本当にいるんだ…」と不思議な感動が湧き起こる。

代表作の読み上げでアイドルの子の可愛い声が「アイドルマスター」と読み上げるのがなんだかくすぐったく、デスクでぱちぱちとイラレをいじりながら聞くともなしに聞いた。


アーティスト活動10周年という話を聞いて逆算したら、もうこの人のことを一方的に7年も認知しているようで、そりゃ社会人にもなるかと納得した。
BRAND NEW FIELDを爆音で流しながら山陽本線の線路沿いを通学していたことを、まだ私はギリギリ思い出せる。
制服で田舎道の朝夕を共に過ごした声が、今なお自身の昼間に生きているのは感慨深かった。

 


それでも、思い出に浸る傍らで、年々薄らぐアイドルと声優の境目を考えていた。


ソロの個人名義で音楽活動をして、ラジオにも出て、役とはいえアイドルの魂を背負って、そしてアイドルを信じて好きでいて、アイドルと仕事をしているてらしーのやっていることはその実アイドルとあまり遜色が無いように思える。

というかもっと言えば下手なアイドルよりも「アイドルが望む活動」をしている気がする。

アイドルを愛し、声優を応援している私にとって、そこの同一視は理念にも美学にも反する行為だけれど、耳から入る楽しそうな音声を飲み込みながら「アイドルみたいだ」と思った。

 

声優のオタクをしているとたびたび脳裏に浮かぶ「声優のアイドル化」という言葉が年々重い。

 

私は、声優がキャラクターを背負ってライブを行うコンテンツをいくつか長く好きでいたけれど、メディアでそれが紹介される時、彼らは「アイドル役の声優」ではなく「アイドル声優」と括られる。(これに関しては一度テレビ局にメールを出したことがあったけど焼け石に水だったと思う)

そうして一人一人がまるでタレントかのように扱われていく。

そのコンテンツで見かけていた声優さんが、そういった活動を好意的に捉えていないのも見た。当時はまだ自我がぱやぱやで何もかも額面通りに受け取る人間だったので、一緒に同じものを好きでいてくれて、楽しそうな前向きな言葉をくれていた相手がそうでないと知って衝撃だった。

何度も見ていたライブ中の顔と、その人の発言を照らし合わせては「私が楽しい時、この人はしんどかったのか」とぼんやり思った。

 

最近は、会員制のチャンネルだとかYouTubeニコニコ動画に多数の声優コンテンツが展開されている。それらは少し個人の選択の中にある、ほんのりクローズドな範囲の公共空間ではあるけれど、人によってはこうした不特定多数に向けた大々的な公共の電波にも乗るし、声優アイドルなんてのもいる。

役者という「本来の活動」だけを応援できる人でありたい、正しくありたいと願う自身を置き去りに、電波は声優その人そのものの日々を乗せてただ流れる。
流れるものを本質とは違うと知って受け取りながら、それでも嬉しく反応する心の処理がわからないことにずっと戸惑い続けている。

決して昨今の展開が楽しくないわけでも、疲れてるわけでもない。楽しくて、何かがあると嬉しいのにそれがきっと正しくないから虚しいだけだ。

 

もはや、歌ダンスビジュアルトークを磨き、一つの職業として、プロフェッショナルとして存在する「アイドル」と、別のエンターテイメントのいずれかを生業としながら、同時に個人としても人前に出るアピールをしている、そうした生身を伴って人の心へ残るやり方としての「アイドル」が、同音の別個の概念として存在するように私は思う。

今や声優という仕事は後者に属し、職業の枠の外で「アイドル」として存在しているんじゃないだろうか。


昔読んだ二次創作で、「ファンにとってアイドルは非日常だが、広告として街中に存在することで日常の一部になれる」という旨の台詞があり、それがずっと好きだった。

音楽を再生するようにこちらが自ら能動的に顕現させるのでなく、自然発生的に日常の中に現れること。それが紛れもなく彼ら彼女ら自身の成果であること。そういうことが確かに自身の生活をやわらかなものにするのだと、ここ数日で知ってしまった。

「アイドル」のいる日常は楽しい。悲しいことに。

 

これを書きながら「オタク」「アイドル」「推し」みたいなワードでnoteを読み漁っていたら、「アイドルって偶像って意味だけど、もうそんなこと無い何かがあるよねこの時代。」という一文があり、「そう〜〜〜〜〜!!!!!!そうなの……そうなんだよ……」と項垂れてしまった。

 

 

事務をする人と企画をする人と経営をする人がみんな同じく一日パソコン前にいるように、いつしかアイドル業の人間も声優業の人間も、姿形生身の一部が公共にオンエアされていくこと、そうして受け取った誰かの中で特別になっていくことそのものが、少しずつ共通になっていくのかもしれないと思った。

それらは良い風にも悪い風にも取られるだろうけど、そのことで少し心を浮かび上がらせて働ける人の気持ちが、もうわかってしまうなとしめやかに思いながら、今これを書いている。

どうしようもない。

レミゼ朗読感想日記

 

横浜にはいつも楽しいことをしに来ているので、街そのものが少しずつ、非日常のアイコンになりかけている。

 

ふと気づけば、前回の記事から半年以上が経っているようです。
このブログは、私がただダラダラ長文日記を書きたいという欲と、坂さんを応援している時間の備忘録みたいなものをなんとなく合わせて偶然どうにかやれているだけなので、書くことに飽きたらやめるだろうなと始めた当初から思っているのですが、もうなんだかんだで1年半ほど私の傍にあります。
流石に初めて書いたものは色々と見苦しすぎて、昨夜そっと下書きに戻しました。いいことだと思う。昔のフルスロットルをそう思えるようになるのは。

 


そんなわけで今回は、ヴィクトル・ユゴー原作の「Les Misérables」を観劇してきましたという日記です。

 

 


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駅からは、中華街を横目に歩きました。
文化的な街って食も施設も発展してていいな。
直線だったのに道に迷ったので、会場には開演20分前に滑り込みました。パンフは売り切れていた。悲しい。

今回の会場であるKAAT神奈川芸術劇場は、NHK横浜放送会館との合築建築物だそうです。(※横浜市観光情報サイトより)
ウィンドウにNHKの番組ポスターなどが飾られていて、テレビなどの映像系の施設というよりは博物館や美術館のようにも見えました。


入場して、もう本当に久々にフォロワーに会った。
「(坂さんには)バズライ以来、会ってないです」と言われて「私もです…」と返しました。
マクベスバズライの翌週だったので、こういう期間的な話ではほとんど同じようなものだと思う。5月のロミジュリは中止になったし。行きたかったなほんと。早くいろんなことがなんとかなればいい。

館内は一面カーペットが敷かれていて、そういう厳かさになんだか背筋が伸びる心地でした。

 

 

劇場の明かりの下では、いつもうまく目が開けられないでいる気がする。
薄暗い中であの高い天井からグラデーションのように光が降るのを、目を凝らしながら静かに息づいて開演を待つ時間が好きです。いよいよ照明が落とされて、自分の目線も暗闇に滲んで、そのまま境目が無くなっていくみたいな瞬間もいい。

舞台の上には、ちらちらと何色もの星が瞬いていて、あたりが暗くなると自分が全部溶けて無くなって、空気ごと目の前の星空と一緒になるような感覚がぼんやりと広がっていきました。


演劇における良席というものがどこかはわからないのですが、今回座ってたとこも個人的にとても良かったです。
真ん中よりちょっと前寄りの列で、席自体は本当にど真ん中で。板上の誰が声を張っていても、演じる瞬間の目線ごとその熱を真っ直ぐ直線上で浴びることが出来て…息が止まる、本当に。今後鑑賞するもの全部、今回みたいな位置で観たいです。

 

お芝居そのものは勿論、演出が本当に素晴らしかった。マクベスの時のような移動を伴う演じ方ではなく、スタンドマイクの前で身振り手振りや表情を交えながらのものだったのですが、銃声の代わりに強く光を焚いたり、キャストのシルエットを際立たせて内情を表現したりと、決して寂しい絵面になることの無い、むしろその立ち姿に迫力を生み出すような舞台だったと思います。


SideM以外での伊東さんを多分初めて生で聞いたんですけど、主役のジャン・ヴァルジャンがめちゃくちゃハマり役でした。
伊東さんのお声って割と色んな役やられてても「伊東さんの演じられている声」だなと感じるというか、声のタイプ自体に凄くバリエーションがある方というわけではないんですけど、でも確かにシーンごとに憤る青年から穏やかに愛を見つめる老人まで姿を変えてこちらに届くので、なんだか不思議な表現力のある方だなと思います。ひとつの形の経年を辿るのが上手い方なのかな。自然と視線の集まる演じ方をされる。

ジャヴェール警部と互いをぶつけ言い争ったり、自身の在り方を神に司教様にぽつぽつと問うシーンも沁みるように聞き入ったのですが、やっぱりコゼットに向けた、優しく愛で覆って守っているような、柔らかな声音が何より良かったです。この人の愛が嘘なら、もうこの世に真実の愛なんて無いと思わされるほど。

 

 

レミゼ見た人の8割がそうだと思うんですがジャヴェールが好きです。
フォンティーヌに対して「深い絶望を知った時、人は死ぬ」みたいなこと言ってたの、誰を見て知ったんだろうそれは。観劇中は気付かなかったけど、多分これはジャヴェールの最期の伏線だったんでしょうね。

自身が信じていたものに埋められない欠陥を見つけてしまうのは、絶望という静かに深く重く濁るそれよりは、一息に吹き込んで広がる焦りや喪失感に近い気がします。
とはいえ、ただ行動の中の思想としてある「信念」の域を越えて、生まれた時から何十年もの間、己の肉体や生き方、命そのものと同化していたであろうそれを失う(=自分自身を大きく見失う)のはやっぱり、先の途絶える絶望と同じなのでしょうか。


ジャヴェールの退場はかなりキャストによって違いがあった部分らしく(人のレポをめちゃくちゃ読みました)、今回の中澤さんは台本を投げ捨て、自ら望んで散ってやらんとばかりに不敵に笑って消えていくのが印象的でした。だからこそ絶望してというよりは、絶対的な正しきを遂には見失い、これまで他者に向けてきた在り方全てを間違いに崩してしまった自分自身を罰せんとするような狂気的な高潔さがあったように思えます。

 

 

一番好感度が上がったのはマリウス。事前知識の段階では、素性も知らぬコゼットに簡単に一目惚れしたり、ヴァルジャンの過去を聞かされて敬遠したりと「後から来たくせに親子を振り回して、なんだか随分勝手だな…」と思っていたのですが、終幕に向かうにつれて、少しずつ輝かしいものを感じるようになっていきました。

(そもそも勝手というのも、私が流れだけは知っていて原作小説自体を読み込んでいないだけのことで、正確には細かな温度感への無知から来るものではあると一応、彼への援護を…)

良くも悪くも自分の見たものに猛りながら直進する人というイメージで、それが石谷さんのお芝居だといい感じに爽やかでストンと受け止められました。コゼットを迎えに行くことが叶わなかった時にすぐさま「やはり僕には革命」と切り替えてしまう危うさは心配になりましたが、ラスト、ヴァルジャンを貶めようとしたテナルディエを追放しコゼットを連れてアパートへと迎えに行くシーンは、遠い道のりや確執にぶつかり続けながらも、ようやく見つけた真の愛をたしかに瞳に映したのだと確信出来て胸が詰まりました。

長年自分を愛した父の言葉を疑わず、イギリスへ渡ったと信じていたコゼット。自身を助け、愛ゆえに2人と離れた姿から嘘を見破ったマリウス。どちらが正しいというものではなく、それぞれの中に違う形の愛が芽吹いていたことがわかる対比だなと思いました。

それはそれとして、エポニーヌからの好意にとにかくひたすら無自覚で(=それほどまでにコゼット以外が眼中に無くて…)、それ故にいっそ嫌味なくらい爽やかで無邪気でクソ〜〜〜〜〜!!!!!!!!となりました。お金を渡して断られるシーン、そうだぞエポニーヌ!言ってやれ!と思ってました(?)

 


マクベスのマルカムでも思ったけれど、坂さんは、自分の中に燃える正義を強く前に突き通し、人を先導する役がとても映えます。己の魂こそ、この国のために、今この瞬間挑まんとする未来のためにあるのだと、誇りを胸に奮い立つ人が似合う。

アンジョルラスが勇しく声を張り上げるたび、力強く振り上げられた腕や、意志のこもる指先や、睨むようにこちらを射抜く視線が刺さる。

私の方がうまく目が見えない日だったけれど、それは痛いくらいこちらに真っ直ぐ、本当に真っ直ぐ届きました。

周りに同じようにこの世界を刮目しながら息を詰まらせる人たちがたくさんいる中で、それでも「今貴方に向けて私はいるから心して聞け」という、空間全部に呼びかけているのに眼差しは確かに自分を向いて挑みかけてくるような、そんな切り立った強さを感じる。
1:多数でもあるけれど1:1でもあるような…
これは私の座席の関係でそう見えたのか、どの席にいてもそういう、ひとりひとり迫るようなものを感じられたのか…どうなんだろう、知りたいです。

こういう、「今後決して知りようの無いこと」をずるずると知りたがって未練がましく思う時間もなんだか贅沢だなと思います。

ジャヴェールがスパイと分かった時の冷淡な物言いも肝が冷えました。マリウスに対する朗らかな話し方や、扇動の力強さが印象に残りやすいから余計に。たしかに強い光の裏には濃く影が落ちるものですからね。

それにしても、命を落としても構わないほど、前のめりに掴みたい未来があって、彼自身にとってはそれを仲間と求め続ける瞬間こそが青春と同じだったというのが…それが叶わなかった以上、本望だったのかもしれませんね。その理想の中で死んでいくのは。本当に危うかったのは誰だろう。

今回の朗読劇は、台詞のタイミングでスタンドマイクに歩いてきて、読み終われば後ろに並べられた椅子に戻って行く流れだったのですが、そんな様子なので、アンジョルラスが椅子へと戻る背中を名残惜しく視界の片隅で眺めながら、続いて出てくるヴァルジャンやマリウスへとゆるゆる意識を動かしていました。

 

 

重ねてになりますが、照明の使い方が凄く良かったです。本当に良かった。

後ろに掲げられた大きなフランス国旗のたわみや、板上でスポットライトを浴びるキャストの頭や肩口に、絵画のような濃淡と色彩を伴って陰影と光とが落ち込んでいて、それがまた物語と客席との隔たりを感じさせていたように思います。


私は演劇の表現や演出には本当に疎いけれど、そういうのに詳しいフォロワーの言う「演出を楽しむ」ということが、坂さんを追いかける中で少しずつ分かってきたような気がします。
舞台そのものもだけど、それを構築するひとつひとつの要素も、それぞれ芸術として確立されたものなんだよな。

セーヌ川のシーンだけはちょっとプロジェクションマッピングみたいな使い方されてて謎だったんですが、最後ヴァルジャンとコゼットとマリウスの3人だけのシーンは、国旗の真ん中の白い部分だけがセピアの明かりを残して浮き上がっていて、それがなんだかドアのような、この3人だけの閉じた小さな愛の空間であるという、その瞬間の強調のように感じられて特に良かったです。

月並みな感想になりますが、本当に素敵な舞台でした。

 


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大学を卒業して社会人1年目に突入し、急に好きなものを追いかけるのが難しくなりました。主に(というか全てにおいて)スケジュールの面で。
幸いにもシフト制の接客業なので、事前に分かればある程度は都合が付くのですが、それでも土日はやっぱり空気的にも立場的にも取りづらい。

「学生時代は自由があるがお金が無く、社会人になるとお金はあるが自由が無い」と学生時代に聞いたけれど、よく言ったものです。本当に。
少しずつ、少しずつ、タイミングの悪さを理由に諦めるものが増えました。

 

これから先も、今日みたいにこちらが抜け殻になってしまうくらいの迫力と質量で作り出される物語があって、きっと私はいつか、そのどれかを取りこぼしてしまう。
そんなことを想像しては、悔しいなと今からもう思います。

こちらも運良く好きなことを仕事に出来ている(これは去年、毎日泣いてボロボロになりながら就活してた時を思うと本当に奇跡みたいなことです)ので、あれもこれもというのが行き過ぎた贅沢なのは自覚してるんですけど、それでもその贅沢が1回でも多く味わえるといいな。

この人の指先まで、眼光まで、震える空気までを、今この瞬間の芝居として味わえる機会を、ひとつでも多く取り込んで終われる人生がいいと、そう思いながら劇場を後にしました。

 

何度でも、マイク前で息吹く貴方を聞きに行きたいです。
これからもこんな時間がありますように。
ありがとうございました。

11/22〜11/29

またいつもの通り感想とか関係無いこととか。

本当は一つ一つ書いてもよかったんですけど、1週間怒涛の供給を受けながら走り抜けてしまったので、せっかくだしまとめて書いてみます。

 

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〜11/22 VAZZROCK LIVE2020〜

去年までとは比べ物にならないくらい振りが入ってて、あと髪型とか衣装もかなりキャラに寄ってたので、幻覚見やすくて助かる〜!と思いました。

衣装は実在の成人男性が着るということを鑑みて多少のアレンジが入ってたりするんですが、私の推してる4人は結構そのままのデザインで声優の皆さんの衣装に輸入されていて、遠目から見るとたまに本当に次元の境が溶けて無くなったみたいに見えました。毎度リアルナオ路線を追求して髪色を寄せてくれる笹くんは勿論、それ以外の皆さんもライトの色で髪色が原石たちのそれに見える瞬間があってかなり良かったな…

あんまり声優さんの外見に触れるのもどうなんだろうとは思うのでこれっきりにするんですけど、この日の坂さんはヘアメイクも衣装もスタイルも相まってさながらディズニープリンスでした。推しのビジュアルが良いと周りの他推しのオタクもえ!?やばくない!?みたいに言ってくれるので勝手に鼻高々になれて楽しいです。

 

初年度のバズライの時はあまりレッスンの時間が確保されなかったらしくて、笹くんなんかは2日でヒルイナの振り入れたとかいうヤバエピソード出してた気がするんですけど、今回とかどうだったんだろうな…

コロナ禍で難しい部分も沢山あったと思うんですが、やっぱり振りが多いと実際のステージを見てる錯覚を強めに感じられてありがたいなと思います。

ていうか告解の「貴方に跪きたい」で実際に跪いてみましょっか!って提案した人誰ですか?無事歩さんに正面で跪かれて死にました(フォロワーの歩さんのオタクもほぼ同じレーンにいたらしくて「狙い撃ちじゃんね…」と慄きました)


冒頭からJEWEL PRINCESSをお出しされたので、「絶対にオタクを叩きのめす」という意志の強さに笑ってしまった。「乱れてよ」のとこ、音源聴いた当初はロクダン夢女のフォロワーたち共々それはもう死屍累々といった有様だったんですけど、いざ現場で聴くと「私の推しアイドルの見せ場タイムだ〜〜〜〜〜!!!」という気持ちが強くなって楽しかったです。去年cRAZY nightが初出だった時も周りでバタバタオタクが死ぬのを見ながら「オッシャ!やったれやったれ!」みたいな気持ちでいたので、単純に好きなアイドルが強いと嬉しいんだろうなと思います。ROCK DOWN、最高〜〜〜〜〜!!!よっ!Kings of Moon!!!

 

Sky Color、CDで聴いた時は「好きだな〜…」くらいだったんですけど、今回は現実を何も上手くやりこなせなくて「こんな無能が楽しい思いばかりしていいのだろうか」と落ち込む気持ちを払拭できないままライブに臨んでいたので、2番冒頭の「ここからどこへ行こう 迷うことはないさ 光辿れば 明日を導く地図があるから」で優しく撫で付けるような歌い方をされたのが結構、結構滲みて、なんか勝手に救われたような気になってしまいました。
この後の「今は何も怖くないさ 君とならどこまでも 心惹かれ合うから」の掛け合いも好きです。私とVAZZROCKのイメソンにしたい(私とVAZZROCKのイメソン!?)

坂さんの、歩さんのこういう時の穏やかな歌い方は、どれだけ不安がギチギチに詰まって前が見えなくなってる時でも、もう一度深呼吸してよし頑張るか!と思う余白を作ってくれるような感覚になるので、いつもありがたいな〜と思いながら聴いています。これは元々ファンレに書こうと思った文章なんですけど、なんかコロナ第3波っぽいものが来ててまだしばらくは出せないのかな〜と思ったのでここに供養します。

 


挨拶で「原石の彼らも僕たちも皆さんに磨いてもらった」という旨の発言を聞くたびに(本当に何度も言ってもらいました)、今年就活に苦戦したり大学に行けなくて世間を呪ったり妬んだりした私が、こうして笑って席についていられるのはキャストの皆さんのおかげだから、よっぽど磨いてもらったのはこっちの方だよと思いました。これから先どれだけ自分を嫌いになったり惨めに思っても、大好きな人たちに宝石にしてもらったということだけはずっとずっと大事に覚えていたいです。

新情報発表。舞台化はなんとなく察してたものがあるので特に驚かなかったんですが、ちょうどライブを見ながら「この人たち越しに見るVAZZROCKが一番好きだな」としみじみ感じていたので、12人の魂のひとかけらでも他の人に預けるのはちょっと癪だな…と思ったり思わなかったりしました。でもフォロワーでめちゃくちゃ舞台化楽しみにしてた人たちが何人かいたので、その人たちのことを順番に思い浮かべてはよかったね〜〜〜〜〜!!!!!!!になりました。人には人のオタク活動。


最後に「ツキプロの曲です」と言われてDear Dreamer,が流れて、「ぁ、」とか「ぇ、」とかの手前のような、声にならない悲鳴をマスクの下で押し殺しながらペンライトを抱きしめていました。
ディアドリはこの子たちのこと大好きな人が書いたんだろうな…と思うくらい優しくて美しくて、バズロの子たちでも歌ってもらえたらな…とこっそり夢見たほど、大好きな曲です。

しかし私自身は正直、バズロ以外はキャラの名前と顔と設定と声帯と大まかなストーリーが一致するくらいでしかなくて、その程度の知識のオタクがまさかそんな夢を口にするわけにもいかなかったので、口に出さずとも叶う夢ってあるんだな…と呆然としながら泣き崩れていました。ずっと会いたかった好きなアイドルに会いにきて、ずっと聴きたかったけど諦めてた曲が聴けるってなかなか無い幸せなんじゃないかな。


何回目かの「君と」で歩さんが指差してくれて嬉しかった。なんか泣きまくってあんまりステージ見てなかったけどそこは偶然見てて、本能的に「アイドルに見つけてもらいたい」「見つけてくれるアイドルを好きでいたい」という気持ちがあったので見つけてもらえて嬉しかったです。

(ちょっとややこしいんですけど、この場合の「見つける」は私という個人を認識してほしいのではなくて「貴方を応援している人を貴方自身が見つけて、自分が与えたもの・自分が今そこに立っていることの価値を感じてほしい」
「それが伝わる瞬間がわかると応援している側は嬉しいから『見つけた』というサインを出してほしい」という気持ちが近い気がします)

本当に立花歩さんというアイドルが大好きです。

 


バズロ版のディアドリ音源が出ると発表されたのもめちゃくちゃ嬉しかったんですけど、5月はちょっと普通に待ち切れないので最近はSOARA版の音源を買って毎日聴いています。「手にするより大事なことを 互いに願いつづけたい」という歌詞をなぞりながら、ずっとVAZZROCKの12人を好きでいたいなと噛み締め続けています。

 

終演後は、仲の良いオタクたちみんなで同じ宿を取っていたのでひとつの部屋に集まって、各々好き勝手にものを食いながらバズロの曲を爆音で流したりライブの感想レポをし合ったり、私がキャスト写真を見て暴れるのを見守って貰ったりしました。修学旅行みたいで楽しかったです。

あと就活でずっと暗髪だから、エクステつけて久々に髪に派手な色入れられてめちゃくちゃ楽しかった。

水色と黄色に近いオレンジだったからフォロワーに「グロロ女!(アイドルマスターSideMのGLORIOUS RO@Dという曲の衣装のカラーリングだから)」と呼ばれて微妙な顔したりしました。服もちょっと気合入れていつもより華やかなシルエットのもの着ました。

現場の時だけは好き勝手できるので、日常生活では不相応だからと切り捨てないといけないような髪とか服とかも思う存分出来て嬉しかったです。

 


〜11/25 いつぼく〜

サクナヒメ実況回。開始直後の「この(散らかった)部屋見てなんも思わないの?」に対する「いっそ落ち着きすら感じる」だとか、ハンガーかけなよと言われたのに対する「だってどうせ着るじゃん…」とかに逐一「いやマジでそれなんよ…」みたいなダメな共感をしてしまって嫌だな。市川さんが言ってくること全部私が妹に言われてることで、初っ端から耳痛ぇ〜と思いながら見ました。

(12/2 追記:本日投稿されたおまけ動画で坂さんがめちゃくちゃ服畳むの綺麗だったので、一緒にしてすんませんでした…という謝罪を追加しておきます)


もうなんか最近は面白そうなゲームがいろんな媒体で出てるので、オーバークックとフォールガイズとサクナヒメはどれがSwitchでどれがプレステかまるでわかってないんですけど、わからないなりに楽しそうだな〜やりたいな〜と思えるものが増えてきて、いいことだなと思ってます。


サクナヒメやるの楽しみだから攻略とか情報とか全部見ないようにしてた!と言う割にアクション操作が上手すぎて絶対やってるだろ!と言われてたの面白かったです。私はアクションゲームの上手い下手はあまりわからない方ですが、あそこまで無駄の無い動きで戦われると、アケゲーの大会で表彰されたレベルと言ってたのも頷けるなと思いました。
(余談ですが、これの話をアケゲーガチ勢のフォロワーにした時に、名前出してないのに「ガンスリ?」と一発で当てられて怖ぇ〜〜〜〜と思いました)


肥溜から肥料持ってくる時に、ピョンピョン操作してるの見て「これ飛び散るじゃん」みたいに言ってたの、ちょいちょい発想が小学生だなと思いました

 

〜11/29 マクベス

有名なシェイクスピアの四大悲劇ですが、私は読んだことが無いため、己の教養の無さをやや恥じながら参戦しました。でも知らない方が絶対のめりこめたなと思う内容だったので結果的には良かったです。

私は坂さんの正統派に力強くて真っ直ぐで、いつも正しさの中に生きていそうだと思わされる声が好きなのですが、マルカムがまさしくそれで良かった。今回やった役の中で一番好きです。

でもダンカン王みたいな歳を重ねた深みのある低音も、フォアレ以来だったのでヨッシャ!となりながら聞きました。

マルカムは声の中に人の道を守る正しさとそれに対する説得力があるので、最後3人の魔女に出会う場面で終わって、悲劇の再来が仄めかされるのがめちゃくちゃ心折れました。主人公が闇堕ちする時みたいな絶望感がある…

 

終わった後はしばらく立てなくて、余韻で視界も足元も朧げなまま物販列に並んでパンフと台本のセットを買いました。毎回なんかこういう台本とかっているかな?見ても多分そんなわかんないよな…と思うんですけど、表現の渦に飲まれた後の処理しきれない感覚を少しでも覚えておきたくて買ってる気がします。列が長くて、ここの人みんな同じ気持ちなんかなとぼんやり思って幸せになってました。

 

夜の部開演が19時で、昼の部が終わったのが15時前だったのでかなり時間があって、普段はあまり来ないアルパの方まで見て回ったりしました。上京してきてからサンシャインシティはそこそこ通ってるけど、ガチャガチャの森とかアニメガとかあったの初めて知れて楽しかったです。足痛くなるまで歩いた。

 

夜の部は2階席の最前列でした。
昼の部始まる時にはツイッターに「セットめっちゃ怖い」みたいなこと書いたくらい、正面から押し寄せるような世界観の圧を感じていたんですが、2階席からだと「世界ごと眺めてる感」が強くて、観る位置だけでもう全然見え方違うんだなと感じました。

鑑賞中も目の前の手摺り(これ結構低くて怖かった)と舞台上に広がる物語の世界との遠近感が狂って見える瞬間があって、正気失ったらそのまま当てられて近付いて落ちてっちゃいそうだなと思いました。

あと昼よりやや手前にいたからか演者が少し見えやすくて、3人の魔女のどれを推しの人が演じているのかは夜で初めてわかりました。口元が見えるまでどれかわからないのは「この人ならどんな声でも出るから」という信頼でもあるんでしょうね。


夜の部のカーテンコール後に、豊永さんが「こんなご時世の中、足を運んでくださって拍手をくださって」といった感じのご挨拶をされていて、なんかオタクの方こそ、こんな稽古一つするのも大変な時期にめちゃくちゃ位置取りとか移動とかややこしい劇をこんな凄いクオリティでやってくださって、もうほんと頭が上がりませんよぉ…と思いながらずっと拍手していました。
だって物販で買った台本見たら、立ち位置の番号も18番とかまであるし、それに加えて椅子とか別の立ち位置とかがアルファベットのZまであるんですもん…Zっていったらもうアルファベット全部じゃんね。
好きなアイドルが一度「ダンスの立ち位置ド忘れした時はとりあえず空いてるとこに行く」って言ってて、その時は適当だな〜と思って結構笑ったんですけど、いざ実際にどれだけややこしいかとか見ちゃうとそりゃそうだよな〜としか言えなくなってしまいます。ありがたいな本当に。


昼の部を観てる時はただただ圧倒されていたのですが、夜の部のほぼ終盤、それこそ豊永さんのマクベスが獣になり始めたあたりにふと「これだけの熱量と引力で引き込んでくるなら、こちらも飛ばされずにそれについていくくらいの力が欲しいな」と思いました。圧倒されるのももうなんかギタンギタンになっちゃってそれはそれで楽しいんですけど、もっと食らいついてしっかり見つめられたらきっと更に楽しいから、ちゃんと体力付けたいな…「朗読劇は体力がいる」という意味を初めてちゃんと知りました。

 


予定の擦り合わせミスって泊まるとこが無くなったので、終演後は干からびるほど暖房の効いたネカフェでラムネを飲みながらパンフや台本を読み返したり、漫画を漁ったり感想を検索しながら過ごしました。私は酒であまり酔えないので、代わりにこうして余韻を引き伸ばしながら、ズルズル現実とお芝居との境目を滲ませてたゆたうことでなんとか精神を整えてやっていけてる気がします。

 

自分のことも、自分が好きな人たちのこともどうなるかわからないような状況だけど、気付けば今年も残りあと1ヶ月だし、どれだけしんどくてもこれからもちゃんと頑張れるように、頂いた気持ちを大事にしてなんとかやっていこうと思いました。

今年も沢山楽しい思い出をくれてありがとうございました。来年も楽しく応援したいな〜!