レミゼ朗読感想日記
横浜にはいつも楽しいことをしに来ているので、街そのものが少しずつ、非日常のアイコンになりかけている。
ふと気づけば、前回の記事から半年以上が経っているようです。
このブログは、私がただダラダラ長文日記を書きたいという欲と、坂さんを応援している時間の備忘録みたいなものをなんとなく合わせて偶然どうにかやれているだけなので、書くことに飽きたらやめるだろうなと始めた当初から思っているのですが、もうなんだかんだで1年半ほど私の傍にあります。
流石に初めて書いたものは色々と見苦しすぎて、昨夜そっと下書きに戻しました。いいことだと思う。昔のフルスロットルをそう思えるようになるのは。
そんなわけで今回は、ヴィクトル・ユゴー原作の「Les Misérables」を観劇してきましたという日記です。
【キャスト発表③】
— 朗読で描く海外名作シリーズ 音楽朗読劇 『レ・ミゼラブル』 (@musica_reading) 2021年6月28日
7/17(土)17:30公演
ジャン・ヴァルジャン #伊東健人
ジャヴェール #中澤まさとも
テナルディエ #木島隆一
マリウス #石谷春貴
アンジョルラス #坂泰斗
コゼット 他 #加隈亜衣
エポニーヌ/フォンティーヌ #諏訪彩花#レミゼ #朗読劇
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駅からは、中華街を横目に歩きました。
文化的な街って食も施設も発展してていいな。
直線だったのに道に迷ったので、会場には開演20分前に滑り込みました。パンフは売り切れていた。悲しい。
今回の会場であるKAAT神奈川芸術劇場は、NHK横浜放送会館との合築建築物だそうです。(※横浜市観光情報サイトより)
ウィンドウにNHKの番組ポスターなどが飾られていて、テレビなどの映像系の施設というよりは博物館や美術館のようにも見えました。
入場して、もう本当に久々にフォロワーに会った。
「(坂さんには)バズライ以来、会ってないです」と言われて「私もです…」と返しました。
マクベスはバズライの翌週だったので、こういう期間的な話ではほとんど同じようなものだと思う。5月のロミジュリは中止になったし。行きたかったなほんと。早くいろんなことがなんとかなればいい。
館内は一面カーペットが敷かれていて、そういう厳かさになんだか背筋が伸びる心地でした。
劇場の明かりの下では、いつもうまく目が開けられないでいる気がする。
薄暗い中であの高い天井からグラデーションのように光が降るのを、目を凝らしながら静かに息づいて開演を待つ時間が好きです。いよいよ照明が落とされて、自分の目線も暗闇に滲んで、そのまま境目が無くなっていくみたいな瞬間もいい。
舞台の上には、ちらちらと何色もの星が瞬いていて、あたりが暗くなると自分が全部溶けて無くなって、空気ごと目の前の星空と一緒になるような感覚がぼんやりと広がっていきました。
演劇における良席というものがどこかはわからないのですが、今回座ってたとこも個人的にとても良かったです。
真ん中よりちょっと前寄りの列で、席自体は本当にど真ん中で。板上の誰が声を張っていても、演じる瞬間の目線ごとその熱を真っ直ぐ直線上で浴びることが出来て…息が止まる、本当に。今後鑑賞するもの全部、今回みたいな位置で観たいです。
お芝居そのものは勿論、演出が本当に素晴らしかった。マクベスの時のような移動を伴う演じ方ではなく、スタンドマイクの前で身振り手振りや表情を交えながらのものだったのですが、銃声の代わりに強く光を焚いたり、キャストのシルエットを際立たせて内情を表現したりと、決して寂しい絵面になることの無い、むしろその立ち姿に迫力を生み出すような舞台だったと思います。
SideM以外での伊東さんを多分初めて生で聞いたんですけど、主役のジャン・ヴァルジャンがめちゃくちゃハマり役でした。
伊東さんのお声って割と色んな役やられてても「伊東さんの演じられている声」だなと感じるというか、声のタイプ自体に凄くバリエーションがある方というわけではないんですけど、でも確かにシーンごとに憤る青年から穏やかに愛を見つめる老人まで姿を変えてこちらに届くので、なんだか不思議な表現力のある方だなと思います。ひとつの形の経年を辿るのが上手い方なのかな。自然と視線の集まる演じ方をされる。
ジャヴェール警部と互いをぶつけ言い争ったり、自身の在り方を神に司教様にぽつぽつと問うシーンも沁みるように聞き入ったのですが、やっぱりコゼットに向けた、優しく愛で覆って守っているような、柔らかな声音が何より良かったです。この人の愛が嘘なら、もうこの世に真実の愛なんて無いと思わされるほど。
レミゼ見た人の8割がそうだと思うんですがジャヴェールが好きです。
フォンティーヌに対して「深い絶望を知った時、人は死ぬ」みたいなこと言ってたの、誰を見て知ったんだろうそれは。観劇中は気付かなかったけど、多分これはジャヴェールの最期の伏線だったんでしょうね。
自身が信じていたものに埋められない欠陥を見つけてしまうのは、絶望という静かに深く重く濁るそれよりは、一息に吹き込んで広がる焦りや喪失感に近い気がします。
とはいえ、ただ行動の中の思想としてある「信念」の域を越えて、生まれた時から何十年もの間、己の肉体や生き方、命そのものと同化していたであろうそれを失う(=自分自身を大きく見失う)のはやっぱり、先の途絶える絶望と同じなのでしょうか。
ジャヴェールの退場はかなりキャストによって違いがあった部分らしく(人のレポをめちゃくちゃ読みました)、今回の中澤さんは台本を投げ捨て、自ら望んで散ってやらんとばかりに不敵に笑って消えていくのが印象的でした。だからこそ絶望してというよりは、絶対的な正しきを遂には見失い、これまで他者に向けてきた在り方全てを間違いに崩してしまった自分自身を罰せんとするような狂気的な高潔さがあったように思えます。
一番好感度が上がったのはマリウス。事前知識の段階では、素性も知らぬコゼットに簡単に一目惚れしたり、ヴァルジャンの過去を聞かされて敬遠したりと「後から来たくせに親子を振り回して、なんだか随分勝手だな…」と思っていたのですが、終幕に向かうにつれて、少しずつ輝かしいものを感じるようになっていきました。
(そもそも勝手というのも、私が流れだけは知っていて原作小説自体を読み込んでいないだけのことで、正確には細かな温度感への無知から来るものではあると一応、彼への援護を…)
良くも悪くも自分の見たものに猛りながら直進する人というイメージで、それが石谷さんのお芝居だといい感じに爽やかでストンと受け止められました。コゼットを迎えに行くことが叶わなかった時にすぐさま「やはり僕には革命」と切り替えてしまう危うさは心配になりましたが、ラスト、ヴァルジャンを貶めようとしたテナルディエを追放しコゼットを連れてアパートへと迎えに行くシーンは、遠い道のりや確執にぶつかり続けながらも、ようやく見つけた真の愛をたしかに瞳に映したのだと確信出来て胸が詰まりました。
長年自分を愛した父の言葉を疑わず、イギリスへ渡ったと信じていたコゼット。自身を助け、愛ゆえに2人と離れた姿から嘘を見破ったマリウス。どちらが正しいというものではなく、それぞれの中に違う形の愛が芽吹いていたことがわかる対比だなと思いました。
それはそれとして、エポニーヌからの好意にとにかくひたすら無自覚で(=それほどまでにコゼット以外が眼中に無くて…)、それ故にいっそ嫌味なくらい爽やかで無邪気でクソ〜〜〜〜〜!!!!!!!!となりました。お金を渡して断られるシーン、そうだぞエポニーヌ!言ってやれ!と思ってました(?)
マクベスのマルカムでも思ったけれど、坂さんは、自分の中に燃える正義を強く前に突き通し、人を先導する役がとても映えます。己の魂こそ、この国のために、今この瞬間挑まんとする未来のためにあるのだと、誇りを胸に奮い立つ人が似合う。
アンジョルラスが勇しく声を張り上げるたび、力強く振り上げられた腕や、意志のこもる指先や、睨むようにこちらを射抜く視線が刺さる。
私の方がうまく目が見えない日だったけれど、それは痛いくらいこちらに真っ直ぐ、本当に真っ直ぐ届きました。
周りに同じようにこの世界を刮目しながら息を詰まらせる人たちがたくさんいる中で、それでも「今貴方に向けて私はいるから心して聞け」という、空間全部に呼びかけているのに眼差しは確かに自分を向いて挑みかけてくるような、そんな切り立った強さを感じる。
1:多数でもあるけれど1:1でもあるような…
これは私の座席の関係でそう見えたのか、どの席にいてもそういう、ひとりひとり迫るようなものを感じられたのか…どうなんだろう、知りたいです。
こういう、「今後決して知りようの無いこと」をずるずると知りたがって未練がましく思う時間もなんだか贅沢だなと思います。
ジャヴェールがスパイと分かった時の冷淡な物言いも肝が冷えました。マリウスに対する朗らかな話し方や、扇動の力強さが印象に残りやすいから余計に。たしかに強い光の裏には濃く影が落ちるものですからね。
それにしても、命を落としても構わないほど、前のめりに掴みたい未来があって、彼自身にとってはそれを仲間と求め続ける瞬間こそが青春と同じだったというのが…それが叶わなかった以上、本望だったのかもしれませんね。その理想の中で死んでいくのは。本当に危うかったのは誰だろう。
今回の朗読劇は、台詞のタイミングでスタンドマイクに歩いてきて、読み終われば後ろに並べられた椅子に戻って行く流れだったのですが、そんな様子なので、アンジョルラスが椅子へと戻る背中を名残惜しく視界の片隅で眺めながら、続いて出てくるヴァルジャンやマリウスへとゆるゆる意識を動かしていました。
重ねてになりますが、照明の使い方が凄く良かったです。本当に良かった。
後ろに掲げられた大きなフランス国旗のたわみや、板上でスポットライトを浴びるキャストの頭や肩口に、絵画のような濃淡と色彩を伴って陰影と光とが落ち込んでいて、それがまた物語と客席との隔たりを感じさせていたように思います。
私は演劇の表現や演出には本当に疎いけれど、そういうのに詳しいフォロワーの言う「演出を楽しむ」ということが、坂さんを追いかける中で少しずつ分かってきたような気がします。
舞台そのものもだけど、それを構築するひとつひとつの要素も、それぞれ芸術として確立されたものなんだよな。
セーヌ川のシーンだけはちょっとプロジェクションマッピングみたいな使い方されてて謎だったんですが、最後ヴァルジャンとコゼットとマリウスの3人だけのシーンは、国旗の真ん中の白い部分だけがセピアの明かりを残して浮き上がっていて、それがなんだかドアのような、この3人だけの閉じた小さな愛の空間であるという、その瞬間の強調のように感じられて特に良かったです。
月並みな感想になりますが、本当に素敵な舞台でした。
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大学を卒業して社会人1年目に突入し、急に好きなものを追いかけるのが難しくなりました。主に(というか全てにおいて)スケジュールの面で。
幸いにもシフト制の接客業なので、事前に分かればある程度は都合が付くのですが、それでも土日はやっぱり空気的にも立場的にも取りづらい。
「学生時代は自由があるがお金が無く、社会人になるとお金はあるが自由が無い」と学生時代に聞いたけれど、よく言ったものです。本当に。
少しずつ、少しずつ、タイミングの悪さを理由に諦めるものが増えました。
これから先も、今日みたいにこちらが抜け殻になってしまうくらいの迫力と質量で作り出される物語があって、きっと私はいつか、そのどれかを取りこぼしてしまう。
そんなことを想像しては、悔しいなと今からもう思います。
こちらも運良く好きなことを仕事に出来ている(これは去年、毎日泣いてボロボロになりながら就活してた時を思うと本当に奇跡みたいなことです)ので、あれもこれもというのが行き過ぎた贅沢なのは自覚してるんですけど、それでもその贅沢が1回でも多く味わえるといいな。
この人の指先まで、眼光まで、震える空気までを、今この瞬間の芝居として味わえる機会を、ひとつでも多く取り込んで終われる人生がいいと、そう思いながら劇場を後にしました。
何度でも、マイク前で息吹く貴方を聞きに行きたいです。
これからもこんな時間がありますように。
ありがとうございました。